「何故隠す。疾く退けよ」
あなたの顔の前、薄いタブレットの向こう側から、オルフェーヴルの不満げな声が飛んでくる。あなたにはオルフェーヴルの表情が見えないけれど、きっと不快そうに眉根を寄せているだろう、とあなたは考える。なにせ、最近のオルフェーヴルはそういう顔ばかり見せてくるので、もはや見なくても容易に想像がついた。
「嫌だよ。今オルフェ、キスしようとしてたよね。退かしたら続ける気でしょ」
「そうだが。何を咎めることがある?」
オルフェーヴルが不満を隠さない声色でそう言うので、あなたは内心で小さく息を吐いた。
ふと、嗅ぎ慣れた芝の匂いが香る。冬特有の乾いた空気でも感じられるほどに、強く。
同じ時間帯を予約していたためにコースを共用しているウマ娘が、力強い足取りで走っているのがあなたの視界の端を掠める。彼女が地面を蹴り上げ踏みしめるたびに立ち上る芝の青い匂いが、あなたの理性をより強固にする。……他人がいる、という意識だ。ウマ娘本人は走ることに集中しているだろうが、彼女の担当トレーナーにあなたとオルフェーヴルのやりとりが聞こえてはいないだろうか。担当の走る姿に集中しているだろうが、視界に入ってはいないだろうか——そんな考えが、胃のあたりを重くする。
トレーニングの休憩中、オルフェーヴルの顔がゆっくりと近付いてきたので——反射的に、タブレットを顔と顔の間に滑り込ませた。この判断は大正解だったようだ。最悪の事態は免れた。
あなたはそう考えながら、唯一の命綱のようなタブレットを握る手にわずかに力を込めたが、オルフェーヴルが焦れれば、こんなものすぐに取り払われてしまうだろうとも思い至る。……シールドとして扱うには、あまりにも心もとない。
機嫌を損ねて力任せに取り払われるのを避けるため、あなたはタブレットを少し下ろすことにした。顔の下半分を隠しながら目だけを覗かせると、オルフェーヴルと視線が合った。
オルフェーヴルは、あなたの予想通り「余は不満である」と言わんばかりの表情であなたを見ている。ウマ娘とヒトの身体能力の差は言うまでもない。あなたがオルフェーヴルのそういう接触を避けられず、済し崩しに受け入れざるを得ないことのほうが多いというのに、数少ないあなたの防衛成功すら不満なのかもしれない。
オルフェーヴルがあなたとの約束を破って触れようとしてくるのをよけると、彼女はいつだってこの顔をする。その顔はまるで玩具を取り上げられた子供のようにも見えるので、あなたにも多少の罪悪感は湧く。湧くのだが、ここは越えてはいけないボーダーだとあなたは認識しているから、オルフェーヴルを押し留める。——トレーナーは、担当を導くものであるべき。
「……そういうのは卒業してからって、約束したはずだよ」
「しかし貴様は余のものだ」
「私はあなたの杖だから、それだけなら間違ってはいないけど」
「ならば」
「でも、トレーナーとしての私は、担当とそういうことはしない。卒業するまで、恋人関係は仮予約みたいなものだよ」
あなたが声を潜めて言えば、オルフェーヴルは一層眉根を寄せる。
「……それに、余は納得した覚えはないが」
「前も言ったけど、これが私のできる最大の譲歩だよ」
あなたがそう返すと、オルフェーヴルは何も言わずにあなたの瞳を見つめた。眉尻が微かに下がっている。恋人同士の接触から逃げるあなたに不満を訴えるいつもの表情とは違う、なにか言いたげな表情だった。
それに違和を覚えたあなたがなにか声を掛けようと口を開いたその瞬間、沈黙を破るようにアラームの音が鳴り響いた。——休憩の終了を知らせるアラームだ。あなたがアラームを止めるのとほぼ同時に、オルフェーヴルは身を引いて軽く伸びをする。
「次はミドルインターバルであったな」
「うん。高負荷運動だし、20本で」
あなたは完全に意識をトレーナーに切り替えて、タブレットのディスプレイに表示させたトレーニングメニューをオルフェーヴルの方に掲げて見せる。オルフェーヴルは興味なさげにタブレットを一瞥し、アウトサイドからコースに入ろうとしたが——ふと、何かを思い出したようにあなたに声をかけた。
「しかし何故そのようなもので余を留めようとした。せめて手で止めるべきであろう」
「あのねぇ。人前で手にキスされても困るんだよ……」
「人前でなければ良いのだな。覚えておこう」
「良くない、どこでもだ……ちょっと、オルフェ!?」
あなたの回答を自分に都合よく解釈したオルフェーヴルは、あなたの焦った声など気にした様子もなくトレーニングメニューを再開する。あなたは慌ててインターバルタイマーのSTARTボタンをタップしながら、オルフェーヴルの背を見送る。
オルフェーヴルの走る姿は、相も変わらず——苛烈で、美しかった。
*
ミドルインターバルを終えたオルフェーヴルが、クールダウンがてら流して走るのを見送りながら、あなたは本日のトレーニングの記録をタブレットにまとめていた。今日のトレーニングは高負荷を掛けることが目的だったが、今日の負荷量でもオルフェーヴルは常に一定のリズムで走れていて、ある程度の余裕を感じる記録が出ている。——これならば、もう少し負荷を強めてもいいかもしれない。あなたは明日以降に予定しているトレーニングメニューを思い出しながら考える。次にミドルインターバルのトレーニングをするときは、セットを増やすことを検討してもいいだろう。本当に増やすのか、仮に増やすとしてもどれくらい増やすかは、今日の結果を踏まえて慎重に考える必要があるが。
検討事項としてこの旨を追記しながら、あなたはちらりと時計の文字盤に視線を落とした。今日のトレーニングコースの予約時間はもうすぐ終了だ。本日の所見は後から書き足すことにして、あなたがタブレットをスリープさせて顔を上げると、クールダウンを終えたらしいオルフェーヴルがあなたの元に歩いて来るところだった。
「お疲れ様、オルフェ」
あなたが声を掛けると、オルフェーヴルは何も言わずに、微かに頷いて見せた。そのままタオルとスクイズボトルを手渡せば、オルフェーヴルは素直にそれを受け取った。
「今日は後は筋肉を休ませることを優先して」
「……疾く帰宅せよ、という意味か?」
「いや、『自主練とかするのは避けて』くらいのお願いかな。走ったり筋トレしたりしない分には、普通に自分の用事済ませていいよ」
「そうか」
そこで言葉を留めたオルフェーヴルの尾が、あなたの手をゆるりと撫でた。
また人前で触れて、とあなたが思うが、咎めるよりも先に彼女の尾はあなたから悪戯に離れて行くから、あなたはその戯れについて何も言えなくなってしまう。
「……では、後ほど貴様のトレーナー室に行くとしよう」
「え? ミーティングの予定とか、特になかったと思うけど……」
「貴様、明日以降のトレーニングメニュー予定を多少見直すつもりであろう。ヒアリングが要るのではないか?」
オルフェーヴルがあなたの顔を覗き込む。……確かにその通りだったので、あなたが眉尻を下げて「来てくれるなら助かる」と白状すれば、オルフェーヴルは遠慮なく傲岸に笑った。
*
オルフェーヴルと別れ、トレーナー室に戻ったあなたは、中断していたトレーニング記録の記載を再開した。断片だけ書き残したメモ書きも、後から見てわかりやすいように文章を整える。あなただけが見るなら、自分だけが理解できるメモ書きのままでも問題はないのだが、このトレーニングをしたオルフェーヴルももちろんこの記録を参照することがあるので、そんな横着は許されない。
ちょうど今日の記録をまとめ終わった頃、トレーニング後の体を清めたらしいオルフェーヴルが宣言通りトレーナー室にやってきた。……思っていたより早く来てくれたな、とあなたは思ったものの、それを表面には出さず、作業用のデスクから打ち合わせ用のテーブルの方へと移動した。
「話す前に今日のトレーニング記録、見ておく?」
あなたが尋ねると、オルフェーヴルは一瞬だけ考えるそぶりを見せた後、顎を引いて頷いた。「じゃあこれ」とあなたはタブレットをオルフェーヴルに手渡し、タブレットのディスプレイに視線を滑らせるオルフェーヴルの向かいのパイプ椅子に腰かける。
しばしの時間が経ち、記録を確認し終えたオルフェーヴルがタブレットをあなたに突き返す。
「よい。問題はない」
「確認ありがとう。トレーニング後だし、軽くヒアリングしたら終わりでいいから」
などとあなたは言いはしたものの、オルフェーヴルはかなりこだわる質で、あなたもオルフェーヴルの「走り」のためには妥協をしない節がある。
つまるところ、軽いヒアリングのつもりで始まった打ち合わせはどんどん話が広がり、一つの議題に結論が出たと思えば新たな議題が上がり、会議は踊り——ふと気づいた時には、すっかり日が落ちて外は真っ暗になっていた。
「ごめん、こんな時間まで」
慌てて確認した腕時計は寮の門限を越えてはいなかったが、学生であるオルフェーヴルをレース直前の追い込み期間でもないのにこんな時間まで引き留めてしまったことに、あなたは罪悪感を覚えていた。
「構わぬ。……実のある打ち合わせであった。余暇を費やす価値はあったろう」
「そう言ってもらえるのは助かるけど……」
——けれど、たとえオルフェーヴルが良しとしても、指導する立場として、時間を忘れてしまうのはよい振る舞いではなかった。
あなたが困った素振りで眉尻を下げると、半面、オルフェーヴルは片眉を上げてあなたを見る。
「余が問題ないと言っているのだ。何故そのような顔をする」
「……ごめん。オルフェを困らせたかったわけじゃないんだ」
確かに、この感情の揺れはオルフェーヴルに見せて良いものではなかった。あなたは微かに首を振り、自身を律するように表情を引き締める。
あなたが表情を繕う一部始終を見ていたオルフェーヴルが片眉を上げたまま何かを言いたげにあなたを見つめているが——あなたはそれに気づかなかったふりをする。あなたはゆっくりパイプ椅子から立ち上がり、作業用デスクのほうに向かいながら、心がけて明るい声を出した。
「もう遅いし、寮まで送らせて?」
「……」
「オルフェ?」
「……よかろう。特別に余を送り届けることを許す」
オルフェーヴルが頷き椅子から立ち上がるのを横目で見ながら、あなたはデスクの上で開きっぱなしになっていたノートPCを閉じて、キャビネットに片付けた。打ち合わせで使っていたタブレットは仕事用のバッグに入れて、コートを羽織る。
あなたが帰宅のための身支度を終えて顔を上げると、オルフェーヴルはすでにピーコートを着込んでトレーナー室の出入り口の近くで腕を組んであなたを待っていた。あなたは慌ててオルフェーヴルの方に駆け寄る。
「お待たせ」
「そう待ってはおらぬ」
「そっか」
あなたとオルフェーヴルはトレーナー室を出て、部屋の施錠をする。廊下の電気は消えていたが、幸いにも完全消灯時間にはなっていなかったため、人感センサが反応して少し遅れて薄明るい電気が点く。そのまま、二人並んで、人気の無い廊下を歩く。
ブロックごと暗い廊下に足を踏み入れるたび、薄明かりが点く。きっと、外から誰かが見ていれば、その灯りが二人の足跡のようにも見えるだろう。人気の一切ないこの時間の学園でそれを見ることができたヒトは——もちろん、ウマ娘も——きっといなかっただろうけれど。
そう長くもない廊下を抜け、正面玄関から外に出る。外の風は特段強くはないが、これまで空調で温かい部屋にいた分、きんと冷えた空気との落差が身体に沁みるようだった。
「オルフェ、寒くない?」
あなたが尋ねるが、オルフェーヴルからのいらえはない。どうかしたかな、とあなたが視線を上げて隣を歩くオルフェーヴルを窺うと、彼女はあなたの方をまっすぐに見つめていた。
オルフェーヴルの澄んだ目とあなたの目が、至近距離で見つめ合う。
「貴様はどうして、平然としていられる」
平坦な声での問いかけだった。
「え?」
「貴様は。この距離に何も感じぬのか」
語尾を上げた問いではあったが、あなたからの答えがないことを想定しているのか、オルフェーヴルはあなたからの返答を待つことなく言葉を続ける。
「私に『触れるな』と言うくせに、手を伸ばせば触れられる距離に何故立つ」
「それは」
「……よい。どうせ貴様は気になど留めてもいないのだろう」
声色は平坦だが、微かな苦々しさの滲む顔だった。まさしくその通りだったので、あなたは言い訳のしようもなく口を噤む。
彼女に押し切られるような形で恋人としてのお付き合いが始まりそうになったのを、どうにか『オルフェーヴルが卒業したら』という猶予を設けるように説得し、今の関係におさまっているから、あなたの「オルフェーヴルは大事な担当ウマ娘」という認識自体は今も昔も変わっていない。あなたの彼女への接し方も大きな変化はなかった。
「ごめん。確かに、ちょっと無神経だったね。でも、私もちゃんとオルフェのこと考えてるよ」
オルフェーヴルは最後まで納得しなかったけれど、オルフェーヴルが学生のうちは決してそういう関係にはならないことは、あなたにとってのけじめであり、オルフェーヴルを守る砦のようなものだった。
だから。
「オルフェが軽い気持ちで言ってるわけじゃないのも、本気なのも、ちゃんとわかってるよ。でも、だからこそ『今』はラインを越えられない。これは、オルフェを軽んじてるからじゃなくて……むしろ本気だからだよ」
あなたの言葉を、オルフェーヴルは静かに聞いている。けれど、オルフェーヴルの濃紺と薄菫色が混ざる瞳は、微かに揺れている。
「……余とて、待てぬわけではない。……ただ、保証が欲しいのだ。口約束ではない、約定の証が」
「証……」
オルフェーヴルの言葉を鸚鵡返しするように呟く。——確かに、口約束は、あやふやなものだ。オルフェがむやみに人前でも構わず触れようとしていたのは、不安な気持ちの裏返しだったのかもしれない。……仮にそうだったとしても、人前だけは勘弁してほしいけれど。
あなたもオルフェーヴルも口を閉ざし、物音ひとつない学園の敷地内を二人とも押し黙ったまま校門に向かって歩く。石畳を踏むふたりの靴音が、高い空に響いている。
学園の校門を抜け、道路を渡る。学園のウマ娘が暮らす寮は校門を出てすぐのところにある。オルフェーヴルとふたりの夜も、もうすぐ終わりの時間だ。
「……一つ、訊ねよう」
ぽつりと、オルフェーヴルが呟くように言った。
「なに? オルフェ」
「今、余が『何か』を渡したら……貴様は、受け取るか?」
「何かって……あいまいだね、それだけだと何とも。ものによるかな」
「……ふ。王から下賜されるものを拒否する選択肢があると? 不敬ものだな、貴様は」
そう言って、オルフェーヴルはあなたから離れ、寮へと足を向ける。「おやすみ、オルフェ」その背にあなたは声を掛けたが、オルフェーヴルが振り返ることはない。彼女がゆったりとした足取りで寮の中へと消えてゆくのを見送ってから、あなたは駅に向かって歩き出した。
星が瞬く、冬の夜だった。
*
「受け取るが良い」
それから数日後。トレーナー室にやってきたオルフェーヴルが、ひとつの箱をあなたに差し出して、そう高らかに言い放った。あなたは椅子に座ったまま、オルフェーヴルを見つめて目を瞬かせる。……長くなるかな、と考えて、とりあえずあなたは作業中だったファイルを保存し、椅子を半回転させてオルフェーヴルと向かい合う。あなたが悠長に作業を中断するのに焦れたらしいオルフェーヴルが、向き合ったあなたにむりやり箱を握らせる。
あなたは手の中に押し付けられてしまった箱を見下ろした。
赤いベルベットでできた、正方形のジュエリーボックス。あなたの手のひらに収まるサイズ感的に、中身は……いや、まさか、そんなはずは。そこまで考えて、あなたは微かに首を振って思考を意識の向こうに押しやり、恐る恐る蓋を開ける。中にはやっぱり、否定したかった——指輪が鎮座していた。
「なに、これ」
「見てわからぬはずがあるまい。見ての通り指輪だ」
「そうじゃなくて。どうして指輪を渡されるのかがわからないから聞いてるの」
「——貴様が言ったのであろう、仮予約だと。予約票も何もないというのに」
「……つまりこれ、予約票の代わりってこと?」
あなたの問いに、オルフェーヴルが頷いた。
——口約束だけではない証が欲しい、とは確かに言ってはいたけれど。予約票としての指輪は、流石に急転直下すぎる。
あなたが「流石に指輪はもらえない」と突き返そうとオルフェーヴルの顔を見上げたが——あなたを見据える彼女の表情を見て、あなたは何も言えなくなった。オルフェーヴルはいつもの自信に満ちた顔をつくろっているのに、瞳に微かな不安を映して、あなたを見ている。
——いつもみたいに、『受け取られないことなど想定もしていない』という顔をしていてくれれば、「受け取れない」と強固に拒絶することもできるのに。
こんな不安げな顔をしているオルフェーヴルを突き放すことが、あなたにはどうしてもできなかった。
反射的に、あなたはジュエリーケースをデスクの上に置いて、手を首の裏に回して身に着けていたネックレスを外す。小さな石のついた間に合わせで買ったようなネックレスで、オルフェーヴルの用意したものには釣り合わないかもしれないが——。
流石のオルフェーヴルもあなたが突然ネックレスを外したのは予想外だったらしく、微かに目を丸くしたが、何も言わずにあなたの行動を見つめている。あなたは今しがた渡された指輪をケースから抜き取って、外したネックレスのチェーンに通す。あなたは指輪を通したネックレスを再び首にかけて、後ろ手にカニカンを留めた。崩れた襟元を正せば、あなたのシャツの袷にオルフェーヴルから贈られた指輪が隠れる。不躾に覗き込めば見えるだろうが、一見しただけでは気付けないところで指輪が揺れる。
オルフェーヴルの指がいざなわれるようにあなたの鎖骨のあわいに揺れる指輪をなぞり、リングに人差指を掛けて持ち上げた。短いシルバーのチェーンが、たわむ。
「何故、指につけぬ。ここが上限だとでも?」
「そうだね。少なくとも卒業までは、指にはできない」
「……ここは……ここでは、外から見えぬではないか。……今までと、何も変わらぬ」
吐き捨てるように、絞り出すように、オルフェーヴルが言う。
言葉はあなたを咎めて非難するものなのに、くしゃくしゃで、縋るような声だった。彼女の指がリングから離れ、そのまま、脱力するように手を下ろす。
「……オルフェ」
「まだなお空言を重ねるつもりか。……貴様の言い訳は、聞き飽いた」
あなたはかすかに苦笑して、下ろされたオルフェーヴルの左手を手繰り寄せた。彼女の手を持ち上げて、薬指をなぞるように触れる。
「指じゃないだけで、ずっと身に着けるよ。——卒業式のときも。だから卒業したら……貴方が、嵌めて」
——私の、ここに。
オルフェーヴルの薬指に触れたまま、音もなく囁けば、彼女の手がぴくりと震える。
あなたが見上げるオルフェーヴルの瞳は薄く濡れて、きらめく星々が微かに滲んで見える。朧月夜のような、うつくしい瞳だった。
それを覆い隠すようにオルフェーヴルはまぶたをおろしたが、すぐに瞳を開けて、あなたをまっすぐに見つめた。一瞬だけ覗いた春の夜空のようなひとみは、もうない。夏の天の川のように星々が力強く煌めく瞳が、あなたを——あなただけを、見つめている。
「言うまでもなく、貴様はこの重みを知っているはずだ」
「もちろん」
「日を重ねる分、その約定で重みは増すだろう。ゆめ忘れるな」
オルフェーヴルの小指があなたの小指に絡められ、するりと離れていく。
まるで子供の「指切りげんまん」みたいだ、とあなたは思う。——破ったらきっと、針千本などでは済まないだろうけれど。あなたはもう彼女から離れる気は毛頭なかったので、そんなありもしない「もしも」の話は、脳裏に浮かんですぐに消えていく。
「その日がくるのを——首を洗って、待つがよい」
そうは言えども、その日が来るのを誰よりも待ち望んでいるのは、目の前で声をかすかに震わせているあなたのおうさまの方なのだけれども。あなたはそれを指摘せずに、「うん。……待つよ」とだけ頷いた。
だって——あなたもきっと、その日を待っているから。
up:2025/07/26